こあらいふ

わたしの日常

あの日から10年、当時を振り返ってみる

あの大震災から10年が経った。この10年という節目で当時のことを書き留めておく。決して思い出したくはないけれど、絶対に忘れてはいけない。

 

当時、私は12歳、小学6年生だった。卒業式を目前に控えた頃、その日は卒業式の予行練習か何かで午前授業だった。午前授業の日はワクワクする。帰ったら何しようかな~。帰りの会をしていた時、急に強い揺れが襲って来た。担任はすぐに机の下に潜るよう指示をした。私はまた地震か~なんて思いながらみんなと同じように机の下に隠れた。しばらく揺れが続く。担任は隣のクラスの先生たちと忙しそうに行ったり来たりしている。床に座るの嫌だな~でも足痛くなってきたしな~仕方ない座るか。揺れは収まらない。そして隣の席の女の子が大粒の涙を流しながら「怖いよーママ―ママ―」と叫んでいる。「大丈夫だって、泣かないで」と励ましてみるが、全く泣き止まない。すぐ泣く子だな~。怒っても泣くし悲しくても泣くし、いつも泣いてるな。その間も揺れが続く。いやさすがに長くないか?酔いそうだ。それに余震にしては大きい。教室には卒業間近ということもあり物はほとんどない。落ちる物はないが、机がグラグラ動き時計が止まっている。蛍光灯が落ちてきたらどうしよう、そう思うほど大きかった。震度っていくつまであるんだろう。7とか?8は聞いたことないな。余震でこの揺れって、、、え、大丈夫なのこれ?ついに後ろの席の男の子も泣きだした。「お前が泣くから、俺も、悲しくなるだろ、泣くなってー」と途切れ途切れに言う。この体格の良いいつもどっしりした男の子が泣きだしたのには驚いた。「え、〇〇君も泣いてるの?泣かないでよ~大丈夫だって」と、私には何の確証もない”大丈夫”を自分にも言い聞かせるように言うことしかできなかった。考えを停止させたかった。今まで感じたことのない揺れを、地震を体験できる施設ですら体感したことのない揺れが起こっている今、その後どうなるかなんて恐ろしくて考えたくなかったのだ。誰か一人が泣きだすと次々と連動して泣き出す。教室には鼻をすする音、泣き叫ぶ声が響いていた。

 

緊急時には親が迎えに来ることになっていた。親が来た人から順に帰っていく。程なくして母親が迎えに来た。友達と別れをし、廊下に出ると防火扉が閉まっていた。防火扉が閉まっている状態を初めて見た。どうやって家に帰ったかはあまりよく覚えていないが、家に帰ると、割れたお皿、本や写真立てなどありとあらゆる物がぐちゃぐちゃに落ちていた。食器棚の戸は歪んで閉まらなくなった。この状態を目の当たりにし、尋常ではないことを痛感した。何をすれば良いかわからなかったので、とりあえず散らかった家の片付けをした。「卒業式できるかな?」「どうだろう、難しいかな」結局卒業式は一か月後くらいに狭い部屋で行われた。体育館には地震でヒビが入ったらしい。

 

水は出なくなり電気も使えなかった。ガスだけはプロパンガスだったので使うことができた。手回し充電のラジオライトがあったので、ラジオを付ける。大きい震度があった、大きい津波があった、福島第一原発で事故があったと言っている。私は原子力発電について調べたことがあったので、とんでもないことであるということはなんとなく理解できた。しかし、津波というものには馴染みがなく親に説明を求めた。地震が起きると海が陸に押し寄せてくるらしい。「海が?じゃあ魚も来るかな。」私の中での海のイメージは綺麗で心地よいもの、楽しい場所、だったのだ。「海って言っても綺麗な水じゃないよ。内陸に来る頃には色々飲み込んで真っ黒になってる。」そんな馬鹿な。全く想像がつかなかった。そんなことが起こったなんて、ラジオで聞いただけでは信じられなかった。どこかで火事でもあったのか、けが人でも出たのかサイレンの音がよく聞いた。夜は一層心細かった。ろうそくに明かりを灯し家中のライトを集めて過ごした。冷蔵庫も使えないので保存がきかない食品をみんなで食べた。次の日の早朝、兄が近所のコンビニに行って食べ物を買ってきた。早朝にも関わらずコンビニには多くの人が押し寄せ商品はもうほとんどなかったらしい。父はガソリンスタンドにガソリンを入れに行った。そこも多くの人がいて長蛇の列ができていたと言っていた。私は何もすることがないのでハンドルを回してずっとラジオライトの充電をしていた。これは私の係になった。気を紛らわせるのに丁度良かった。次の日には近くで水を配っているという情報を聞き、母と一緒に水をもらいに行った。夜は暗くて長かった。ラジオからは今回の地震の名称を「東方地方太平洋沖地震」と名付けたと聞こえてきた。長くて覚えられないねなんて話をした覚えがある。他に何をして過ごしていたかよく覚えていない。

 

数週間後に確か先に水道が復旧し、その何日か後に電気が復旧しもう手回しで充電しなくていいねという話をした。蛇口を捻ると水が出る、ボタンを押すと電気が付く、なんて便利なんだ。作ってくれた人ありがとう!

 

ライフラインが復旧し落ち着いてきた頃、少し離れたところ沿岸部に住むいとこの家が津波の被害を受けたと聞き片付けの手伝いに行った。車で向かう途中の窓から見える景色は、いつも見ていたのとは明らかに違っていた。通れない道もあったが、なんとかいとこの家に辿り着いた。私は愕然とした。家の外にまで物があふれていて全部真っ黒な泥を被っていた。木も流されていてそこにあったはずの看板もなくなっていた。どこから流れてきたかわからないものもあった。本当に津波がここまで来たのか。私はまだ信じられなかった。泥を拭き取り、いるものといらないものを分けた。家の中にも泥が入っていて元がどんな状態だったか思い出せないほどに荒れていた。それでも「うちはまだ良い方だ」と言っていた。これで?良い方?「亡くなってしまった人も大勢いるんだから、命があるだけで十分なの」と。それでも私は納得できなかった。こんな目に合って、でも誰のせいでもない。どこに怒りをぶつけたらいいのかわからなかった。

 

そこから近くにあるおばあちゃんの家にも片付けの手伝いに行った。おばあちゃんは外にいたとき音がして海の方を見ると、黒いものがこっちに近づいているのが見えた。津波だと思って走って逃げたけど間に合わなくて、近くにあった木に必死にしがみついた。水が首辺りまで来てこれ以上水位が上昇したらダメだというギリギリのところで無事だったと話していた。身近な人がそんな危険な目に合っていたなんてととてもショックを受けた。

 

昔、自分は大丈夫と何の確証もないのに漠然とそう思っていた。でも今はそんな甘っちょろいことも言ってられない。もし神様がいるのだとしたら相当なドSだろう。次々と試練を与えてくるではないか。

 

10年経った今、忘れられてきているように思う。最近も大きな地震が何度かあり、また近いうちに大きな地震が来ると言われている。日本人は地震に慣れ過ぎだ。震度5強地震が来て津波警報が出ても、一旦は警戒するが収まるとすぐに元の生活に戻る。あの日、自然の驚異を目の当たりにした。震災は何の前触れもなく一瞬で日常を奪うと学んだはずだ。でも今回は違う。あらかじめ大きい地震が来ると言われている。まだ猶予があるのだ。それならば備えをしておくべきだ。こんなに言われているのに何の備えもしていないのは現実から目を背けているようにしか見えない。それか相当能天気な人か。今一度防災についてきちんと考えてみてほしい。

 

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